オタクでありつづけるということ

 

「学生時代にはまるのと同じように、同じ熱量を持ってはまることがむずかしくなる」
よくSNSなどでも見かける話だ。
学生時代の友人関係は、自分が持っている価値観より 趣味嗜好やどんな面白いことが好きか でつながることが多い気がしていて、月日が流れれば流れるほど、いくつになっても同じようなネタで爆笑できることを本当にありがたく思う反面、かなり離れてしまった趣味嗜好の面について悩むことが増えている。

よくよく思い返すと、昔から好きになるものの性質が異なっていた。大人になって、お互いの時間を長く過ごせば過ごすほど、その差は大きく開いていく。友達の関係を長くずっと続けていたいがために、彼女たちが好きなもののオタクになったほうがいいのではないかという焦りと、それらに時間をかけてもおそらく同じ熱量ではのめりこめないだろうという薄い諦めと、合わせて何かを見ようとしている自分への軽蔑が、心の中で入り混じっている。

時間をかけたいこと、お金をかけたいことが、まったく異なっているとき、二人でいるのはすごく難しい。共感がコミュニケーションの主であるが故に、何かの共通のオタクであることは、お互いが仲間であるという安心感があり、そうでないとき、この人とは何を話そう、という不安が体や心をより固くするような気がする。

昔の自分だったら、この時に自分を強く責めていたと思うが、今の私はそうは思わない。私には私の好きなもの 価値観 大切なものがあって、それが違うことは何もおかしくないし、最低限の礼儀や思いやりがあれば、自分を否定する必要はない。私は 私を大切にしてくれて 私の価値観を共感して尊重してくれる人と一緒にいればいい と強くおもっている。自分の心理的安全性が一番大切で、安心感が脅かされているとき、人は、人間に見つめられて背中の毛を逆立てる野良猫のように、攻撃的で、懐疑的で、余裕がなくなってしまうのだと思う。

きっとそんな風に思わせてくれたのは、ありのままの私を肯定して愛してくれる夫との時間のおかげだと思う。自分の思っていることを素直に打ち明けて議論することが楽しいと思えること、私のことを尊敬すると伝えてくれることが、ここ数年の地に足の着いた自分の姿を形作っていると思う。本当にありがたい話だし、私も、相手にとって、そう思ってもらえるような存在でありたい。

タイトルと少し逸れてしまったが、改めて、オタクでありつづけるということ はどういうことなんだろう。つまり、「同じオタクにならないといけない。昔のままのオタクでありつづけないといけない。」という強迫観念を勝手に持っているのが今の息苦しさの正体だと思う。

ついうっかり強い言葉で相手の好きなものを否定してしまうことがある。でもそれは、自分から見たらおもちゃのナイフは、相手から見れば、間違いなく相手の想い 信条 価値観 自信を傷つける本物の凶器であるということを、強く強く心に刻まないといけない